征夷大将軍 懐良親王(かねながしんのう)御墓

 後醍醐天皇の皇子であった懐良親王は、延元元年(1336)征西大将軍に任命された。この時期南朝方は湊川敗戦のあと比叡山の行在所(あんざいしょ)が尊氏兄弟の率いる東上軍の包囲下に総攻撃を受けて苦戦中であった。親王の使命は「急いで鎮西に下向し、鎮西の宮方勢を催促して上洛しこの危急を救うこと」であった。
 親王は当時8歳、五条頼元・中院義定ら一行十余人は九州下向の途につき、出発以来5年9ヶ月後(1342)南九州の南朝方に迎えられて薩摩に上陸、谷山城に九州最初の征西府を置いた。そして、1347年後肥後入国菊池に征政府を置き南朝方を率いて戦いを続け、正平13年(1358)11月に九州全土は親王の支配下になった。しかし、その後、新九州探題今川軍との死闘が繰り広げられた。
 親王は弘和3年(1383)3月27日に55歳で他界、この地に墓ができた。明治11年(1873)4月25日懐良親王御墓と決定され、現在は宮内庁所管となっている。御墓は樟・檜・杉など老樹茂る中にあり、西向きで東西27.3m、南北20mの土居で囲まれた中に内玉垣があり、その中の小円墳が親王の御墓である。昭和15年八代市郡有志、婦人会・青年団ら多数の奉仕と寄付金で御墓外苑がつくられた。

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