泉福山宗覚寺(せんぷくざんそうかくじ)
市指定有形文化財(昭和40年4月12日)
加藤忠正は、加藤清正の長男が早世したので嫡男として慶長4年(1599)に江戸で生まれた。しかし、疱瘡にかかって慶長12年(1607)1月27日、江戸屋敷において9歳で亡くなった。悲嘆にくれる清正夫妻の夢枕に忠正が立ち、その慶長13年(1608)一周忌に忠正の菩提所として泉福山本成寺を創建した。開山は妙音院日領大徳である。その後、本成寺は寛永11年(1634)八代城下に移され墓守だけを置いた。
移転後47年目の延宝8年(1680)八代城主松井直之の斡旋で、藩主細川綱利は本妙寺の日竜を住持としてその寺跡に宗覚寺を建てた。
寺名は忠正の法名の「理性院殿宗覚日等大居士(りしょういんでんそうかくにっとうだいこじ)」によったものである。
当時の本堂と庫裡は、明治10年(1877)西南の役で薩摩軍の本陣が置かれ山門を残し兵火で全焼した。本堂と庫裡は明治18年頃に再建され、
その後昭和46年に補修工事が、昭和60年に庫裡が新築され、平成2年に本堂・山門屋根瓦葺き替えおよび内陣改修工事をへて現在の宗覚寺がある。
本堂の裏庭には、芭蕉の句(芭蕉塚)が残っている。