妙見神社
県指定重要文化財(昭和38年4月25日)
社は、文治2年(1186)後鳥羽天皇の勅願により検校散位(けんぎょうさんみ)、大江高房(おおえのたかふさ)
が建立した。
八代神社は江戸時代末期まで「妙見宮」とよばれ、神道と仏道の混淆で経営される上宮・中宮・外宮の三宮をもち
、平安時代以降代々の領主から氏神として、さらには八代城の鎮守として崇敬されてきた。
南北朝から江戸時代末までは、八代・芦北・下益城、三郡の一の宮として栄えた。
江戸時代初期には小西行長(こにし ゆきなが)が破壊した社寺を加藤右馬允正方(うまのじょう まさかた)が復興し、
細川忠興(ほそかわ ただおき)の八代在城時代は直祭り社とし、さらに松井家時代には請祭り制を定め、藩主の直祭り社
としての社格をもった。
しかし、明治元年(1868)の神仏分離令により、明治4年(1871)に「天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と
「国常立尊(くにとこたちのみこと)」を祭神として八代神社と改め、県社となった。
祭礼は九州三大祭りのひとつにあげられており、神輿・神馬・獅子舞・亀蛇・傘鉾などの祭礼神幸行列は県指定の
無系文化財で、人出も10万人を越す賑わいである。祭礼日は明治初めまで旧暦の10月18日、その後の11月18日、
平成5年から11月23日に変更された。
妙見宮の楠
指定天然記念物(昭和38年4月20日)
妙見宮正面にある石の鳥居の右側に、幹回り7.5m、高さ22mという老樟がある。
天正9年(1581)12月1日、八代城主相良義陽は、御船城主甲斐宗運との戦で、その暁出陣のおり戦勝祈願のため妙見宮に立ち寄った。その際、長旗がおりからの強風で大樟の枝にひっかかってどうしても離れないのを、ついに引き裂いて出発してしまい響野原の戦いで悲運の戦死をとげたという因縁の老樹である。
また、小西行長が肥後南半を領有した祭にキリシタン一揆によって、妙見宮も災難を受け木の一部を焼失したといわれている。四周の玉垣には「その初めを知らず、又終を知らず万歳のもと枝葉茂盛す。ああ、霊なるかな」と彫られている。この玉垣は、安政5年6月、八代町や大阪の信徒によって造られたものである。
現在、この樟には明治10年の西南の役当時の鉄砲の弾が多数入っており、800年余の幾多もの盛衰の物語を残している。
妙見中宮跡
市指定史跡(昭和40年5月18日)
懐良親王御墓から200mほど中宮川の上流、中宮橋を渡った一帯が妙見中宮跡である。妙見中宮の創建は永暦元年(1160)3月18日、二条天皇の勅願により当時の肥後国司平貞能がこの地を選んで創建した。同時に神領40町を寄附し長文の願文を納め南北10町、東西1里の間を殺生狩漁を禁ずる区域とした。
妙見上宮より18町(約2km)山を下りた場所で、妙見下宮創建までの27年間は、平家の全盛期であり神仏混淆の宮寺が栄えた時代である。本地垂迹思想が広まる頃で当時の宮寺には神宮寺・別当寺・本地堂・塔その他伽藍を配置し、祭祀には僧侶の修法、勧行などの作法を加え神社が仏寺のように変遷する時期でもあった。妙見中宮は本地堂を建てて本地仏寺祀り、首坊として中宮山護神寺が創建された。中宮跡出土の平瓦は背面が斜め格子文、表面は布目文である。中宮跡には社殿のあった土台が残っていたが、近年、社殿が復元された。大正5年、中宮跡の池の中より懐良親王御自筆宝篋印塔が発掘され、現在は懐良親王御墓内玉垣の中に奉安されている。
妙見上宮跡
県指定史跡(昭和38年1月22日)
海抜400mの妙見町横嶽の頂上台地に、八代地方における山岳仏教寺院の代表である妙見上宮跡がある。台地は東西約70m、
南北約250mで妙見中宮より約2km登った所にある。
上宮社殿のはか神宮寺など2~3の坊があり、祭神妙見神のほか大日・阿弥陀・釈迦如来を本尊としたといわれている。
南方に石燈篭の台石、北よりのところに泉水と庵の跡、池の跡などがある。上宮は神仏混淆で密教の性格をもち、鎮護国家の道場として堂が建っていたと思われる。
社殿創建は延暦14年(795)造営の伝承があり、「妙見宮実記」には「桓武天皇円歴14年(795)乙亥、勅願によりて社殿を草創らしむ」とある。
中央基壇の東側一帯より布目瓦(軒丸瓦・軒平瓦・さざなみ文様・斜格子文の布目瓦)が出土する。何れも平安中期のものと考えられ、雑木林や雑草の藪の中には墓石や一字一石花塔等が残っている。ここは八代の妙見信仰地として最も古い。